私は神奈川県出身の女性です。所謂ベッドタウンと呼ばれるような場所で人生の多くを過ごしました。
児童数が多いため1クラスの人数もクラス数も多く、集団行動が普通、個人の意見を聞かれることはないような学校生活を送りました。
教科書には男らしさ女らしさについて表記があり、保健科目での性に関する授業は男女別で行われたことを覚えています。
そんな環境の中で、思春期になったら身体の変化があり異性に関心を持つ、結婚は男女でするものと聞かされました。
それは小学生の頃には女性に惹かれていた私にとって、自分の感情はおかしく、恋をした相手と結婚し家庭を持つことはあり得ない事、と宣告されたようで、とてもショックを受けました。
中学生から高校生の頃は頭の中がいつも真っ暗な感じがして、夜中にこっそり家を出て歩道橋から車道を眺める日々を送りました。
悩みに悩んでしまい、できるだけ他人と関わらない様にしていたので、教室でも浮いていたのではないかと思います。
もしあの頃の自分が、もっと多様な未来を想像できていたらと思わずにはいられません。
これから思春期を迎える人たちには、そんな思いをして欲しくない、自分の将来には様々な可能性があると感じて成長していってほしいと思います。
現在、私にはパートナーはいません。
ですが、2011年の東日本大震災の時は、パートナーの地元である田畑が広がる中で生活していました。
自分で作った野菜が食べられる生活を初めて体験し、更には両親と良好な関係を築いている人がパートナーであったため、ご家族とも交流のある豊かな日々を過ごしていました。
そして幸いにも、震災では大きな被害を受けませんでした。毎日続く余震、2~3週間復旧しなかった水道とガス、そして原発事故の情報が入ってこないことに悩まされましたが、彼女の判断力と行動力のおかげで、そんな状況の日々も乗り越えられました。今でもとても感謝しています。
あの頃、突然住む場所がなくなる可能性がある、どちらかが障害を負ったり命を落とす可能性もある、もし彼女が亡くなったら私はどこに住むのか、彼女の家族との関係はどうしていくのか、という事が常に話題に上るようになりました。
何の保障もない自分たちの関係を突き付けられ、簡単にダブルマイノリティ、トリプルマイノリティになるかもしれない恐ろしさを実感せざるを得ない状況になりました。
その後は関係がうまくいかなくなり現在に至ってしまっていますが、あの時、私たちが婚姻関係にあるという形を取れていたら、もしくは法的保障のある関係であったなら、もっと違う災害への向き合い方があったのではないかと考えることがあります。
どこにも残っていない私たちの生活、表向きは、数年のあいだ間借りしていた同居人がいただけの状態です。
思い出話もできません。
婚姻をするかどうか、いつ誰とするかは当事者二人の問題であり、基本的な個人の権利であるはずです。
誰にとっても人生は光が見えるものであってほしい。
私はひとつでも多くの選択肢がある未来を望みます。
睦月さん
2016年8月31日掲載